手造り真空管アンプの店




元のページに戻る


店主コラム 2006年1月〜3月分

2006年3月21日
<続 葛飾北斎>
 昨年末、北斎展をこのコラムに掲載した。余りにもすばらしかったので掲載した訳だが、最近また北斎についての記事があったので紹介したい。一つは集英社発行の<adinfinitum>で葛飾北斎の特集が載っていた。そこから文を引用すると北斎が世界に与えた影響が次のように書かれている。
 「1999年、アメリカの<ライフ>誌は11世紀から20世紀までの千年間に、世界にもっとも影響をおよぼした人物百人を選出した。エジソンからコロンブス、マルチン・ルター、ダ・ヴィンチ、ガリレオ・ガリレイ、ニュートン、ダーウィンなどなど、なるほど世界の人類史上に重大な影響をあたえたと思える人びとの名前が並ぶが、この百人の中に日本人から北斎だけが唯一、選ばれているのである。その理由を推測してみれば、北斎の稀有な意味がわかるかも知れない。・・・・」  「その後、日本の浮世絵の素晴らしさに気づいたセザンヌ、ドガ、マネ、モネ、ゴーギャン、スーラ、ロダン、ピカソなどなどが浮世絵のフォルム、描線、色彩を学んだと言われる。さらにドヴィッシーやリルケ、ロマン・ロラン、魯迅たちまでが浮世絵に心を奪われた。とりわけ北斎のあたえた影響は尋常ならざるものがあって、ドヴィッシーなどは彼の有名な<神奈川沖波裏>に興趣を得て、管弦楽用に<海>を作曲したほどだ。・・・・・・」このように北斎の与えた影響がいかに大きいものであったかを述べている。
 さらに3月20日の朝日新聞夕刊には今ワシントンで北斎展が開かれて記事が出ていた。これはアメリカ人の実業家チャールズ・フリーアが収集したもので、門外不出とされているため東京展には出品されなかったものらしい。そこには約90点の肉筆がが展示されていて、世界に数点しかない屏風もあるとのことだ。お金があったらアメリカに行って見てきたい。日本の作品なのに門外不出とは何たることだ。なんで日本で見られないのだろうか。北斎の晩年の肉筆画はすばらしい。緻密で描画力がすごい。今回の作品には表現が近代的な印象を与える作品が新たに発見されたようだ。こんな肉筆画が見られないのは悲しいことだ。こんな現象も日本より海外で先に評価が高い証拠だ。
 皆さんどう思いますか。我々が認識している以上に世界は北斎を認めている事実を。我々はこれほど絵画の世界で北斎が世界に影響を与えていることをそれ程認識していないのではないか。昨年の東京での北斎展でも国宝はなく、重要文化財が数点の寂しさであった。これらの事実はどのように受け止めたらよいのであろうか。
 昨年北斎展を見たきっかけから北斎のことに興味を覚えた。この稀有な天才画家にもっと敬意を払いたい。

 北斎は晩年「画狂老人」と称していた。私もおこがましいが「音狂老人」になりたいものだ。

<チンチョウゲの花です。
この季節この花から甘い香りが漂ってきて春の到来を歓迎してくれるようです。>






2006年3月12日
<800Dと4343>
 800Dと4343と言ってもオーディオマニアでない人にはピンとこない番号だが、これは高級スピーカーの製品名で<B&W 800D>と<JBL 4343>のことである。今月は幸運にもそれぞれ個人でお持ちの800Dと4343をじっくり聴く機会が得られた。B&W 800Dはペアーで300万円もする超高級スピーカーのひとつで最新スピーカーの頂点をなすスピーカーである。一方JBL 4343はおよそ30年前の製品だがその名声は今でも長い間続いている。当時の値段が150万円程度のこれも超高級スピーカーで今の価格に直すと300万円程度になると思われる。そんな新旧高級スピーカーをじっくり聴く機会が得られたことは大変幸運なことだった。さて音の印象はどうだったのだろう。ひと口で言えば高級大型スピーカーの醍醐味を満喫でき、それはこれまで私が経験しなかった音が堪能できた。さすが評判の高い高級スピーカーは次元が違う。音の印象を文章で分かりやすく説明するのは料理の味を説明するのと同じ位難しい作業だが簡単に触れてみよう。(あまり大げさに書くとうそに聞こえる)
 B&W 800Dはクラシックからジャズまでどんな音楽でも不満なく再生してくれる。特に低音の再生がすばらしく私の設計した<Adagio>が歯切れの良い低音を聴かせてくれた。また音の品格も良く、音楽で私を大きく包みこんでくれる印象だ。やはり現代スピーカーの最高峰に君臨するだけのことがある。JBL 4343の特筆すべき私の印象は、音色そのものより演奏者の細かい表現を忠実に再現してくれたことであった。諏訪内晶子の細かい表現が非常に良く伝わってきた。だからこちらも聴いていて音質などは関係なく音楽に引き込まれてしまった。こんな経験は初めてだった。オーディオというと原音再生とか音の質を云々するが、演奏者の表現を忠実に再現してくれた方がよっぽど音楽的に楽しいことを実感させてくれたスピーカーだった。両方に共通する印象と言えば大型スピーカーから発せられる朗々とした音の表現力に余裕があることだ。高級車を運転するが如く、パワフルで余裕のある走りがこちらの気持ちにもゆったりとした気分にさせてくれる。
 普段私は小型スピーカーで聴いているためこの大型スピーカーから発せられる音楽の余裕というものに憧れを感じてしまった。今回の試聴で更に得られたものは、女房も4343の試聴に同席した結果彼女もその大型スピーカーの魅力に取り付かれたことだ。お陰で次の我が家のスピーカーシステムに大型を導入することに賛成してくれるようになった。これも大きな収穫だ。まだ資金の目処は立っていないがこれから事業を頑張って大型スピーカーが導入できるようになりたいと思う。今回の高級スピーカーの試聴は思わぬ副産物が得られた。

 音楽の楽しみ方も千差万別だ。今回の高級スピーカーの試聴経験はオーディオ世界の奥の深さを感じさせられた出来事だった。

<右の写真は我が家の梅です。味気ない文章に少しでも花を添えたいためです。今は花のきれいな季節なので少し紹介しようと思っています。>





2006年3月1日
<手前味噌>
 ひと月程前、今年の自家製味噌の仕込みをした。自家製味噌作りは14年程続いている。いったんこの味を経験してしまうと、市販の味噌には戻れない。香り、風味などがまったく違う。本当においしい。手前味噌とはよく言ったものだ。我が家の味噌造りにはモーツアルトの音楽を流す。以前テレビで酒造会社が酒を仕込むときモーツアルトを流すと美味しくなると聞いたからだ。今年は「ピアノと管楽のための五重奏曲 変ホ長調K.452」にした。きっと味のハーモニーも曲同様すばらしいものになるだろう。
 私は料理は嫌いではないが得意ではない。アンプは設計出来るが、料理は設計出来ず必ずレシピが無いと作れない。私には料理もアンプ作りも同じ感覚だ。材料を集め、材料を加工し、組み立て、後は感覚・感性で仕上げる工程はアンプ造りに通ずるものがある。また美味く出来上がった時の喜びは共通する。それに料理のやり直しのきかない工程というのもおもしろいものだ。これまで何度も味付け、火加減、水分の量、とろみの加減で失敗していることか。だから美味くいった時の喜びが倍増するのだ。オーダーメイドの手造りアンプも失敗が許されない。だから慎重に設計し、工程を考える。途中から穴あけなど出来ないからだ。それに作業中にアンプにキズをつけない様慎重に作業する。シャーシー周りは必ず養生を施し、また作業モットーは1つの作業になるべく1つの道具しか持たないことだ。余分な物を持つと必ずシャーシーにぶつける。キズを付けたら商品価値が無くなってしまう。ここに一発勝負の難しさがあり、ただ一つという価値が生まれる。
 先日スーパーでスパゲティーの材料を買いに出かけた。売り場には母子連れが同じように棚を見ていた。スパゲティーを作る様だが、どうもレトルトか何かのようだ。小学生位の女の子が好きなソースを選んで良いよと言われ、選んでいるがどうも納得するようなソースが見つからないようなのだ。私はそばでソースの材料となるホールトマトをかごに入れながら母子の会話を聞いていた。トマトソースなどは20分もあれば美味しい物が出来るのに、この娘さんはかわいそうだなと思って買い物をしていた。レトルト食品では本物が味わえないし、味の楽しみも出来ない。自家製味噌も作ってみると市販味噌とはまったく違う。風味、塩気などはその年の発酵の仕方で変化するので、味も変化する。しかしそれでも市販味噌では味わえないものがある。小さい時からなるべく本物を経験した方が良いように思う。これは音楽も同じだ。なるべく本物に近い音楽を子供に与えた方が子供の才能を伸ばすことになるように思う。いつもコンサートに連れて行く訳にはいかず、だからといって携帯プレーヤーで電車の中で音楽を聴けば良いというものではない。これでは味覚障害になってしまう。やはり家庭でゆっくりと音楽に浸る環境を設けたい。親が良い音で聴けば子供も自然に本物に近い演奏に接することになる。大人の皆さんもっと家で音楽を聴いて下さい。それも出来るだけ良い音で。MYプロダクツの手造り真空管アンプで聴けばきっと情操教育に役たつと思う。これは余りにも手前味噌の話であるかしら。






2006年2月26日
<コラムまた更新します>
 2月1日以来このコラムを更新していなかった。理由はコンピューターの故障で使えなかったからだ。この間ある人からこのコラムが更新していないのは何故かと問い合わせが間接的にあった。このコラムを毎回読んでいただいているらしい。大変ありがたい事だ。やっとコンピューターが使えるようになったので、これからも以前と同じようにこのコラムを更新していくつもりだ。今回の故障で不便さも感じたが、一方失ったデータもあり、コンピューターの便利さと脆弱性も痛感した。今回はハードウエアの故障であり、セキュリティーは十分に気を付けていてもどうしようもない。このような時にも直ぐにバックアップ出来ないと商売に差し支える。こん後は気をつけたい。
 ご迷惑をお掛けしましたが、今後も宜しくお願いいたします。



2006年2月1日
<新聞記事から>
 前回に続き新聞記事から。今朝の新聞で富士写真フィルムがリストラを発表したという記事が出ていた。前回と同様カラーフィルムとデジタルカメラの不振によるものだ。富士写真はデジタルカメラも縮小していくそうだ。世の中の動きは速い。その記事のなかでの社長のコメントは「写真は人間の大事な文化の一つ。大幅な構造改革は写真フィルム事業を継続するためだ」と書いてあった。前回このコラムで銀塩フィルムカメラの文化としての継続を書いたが、同じようなことを写真事業の中枢にいる方が考えていてうれしかった。儲からないからただ止めるでは面白くない。何とかフィルムの生産も続けてもらい、フィルム写真愛好家の方にも、今後も続けて楽しめるようにしてもらいたいものだ。私の友人にデジカメ写真愛好家がいて、小江戸 川越を撮り続けている。このHPのリンクに載っているので見て下さい。このようにネットでたくさんの写真が見れるのも、デジカメならではの恩恵か。銀塩写真も今後頑張ってほしい。
 さて別の記事から。ライブドアーのことである。私は今年初めて青色申告する。個人事業を始めて1年目で経理も初めての経験だ。経理(会計)の経験もないので、会計ソフトに頼ることにした。お金の出し入れ時には領収書と伝票はその都度用意してあった。会計ソフトの購入は秋であったので、後から会計ソフトに入力していった。会計の言葉は難しい。借方、貸方、科目、貸借対照表などなど専門用語を理解するだけで大変だ。私のようなエンジニアには慣れない言葉ばかりだ。ところが私が使った会計ソフトは優秀で、私のようなど素人でも指示に従って入力していけば、損益計算書(P/L)、貸借対照表(B/S)を自動的に作ってくれる。大変優秀な部下だ。先日、税務署から派遣された税理士さんに内容を見てもらったら記入方法は全く問題なかった。ただし事業内容はお粗末であったが。実はこの優秀な会計ソフトがライブドアーの<弥生>なのである。世間を騒がせているライブドアーに数年前買収されたようだ。そしてライブドアーの新社長この弥生の元社長が就任した。この方は以前ソニーにも勤めていたそうだ。これだけきちんとした製品を作っている会社なので、きっと手堅く会社を運営される方と期待している。会社は大きくなると株主だけのものでない。私のような1ユーザーでもこのソフトが無くなると影響は大きい。一時、株主への還元を最大にすることが一番という経営方針をとった会社が増えて(EVA経営)、その結果ユーザーへの配慮が無くなり、製品の価値が下がっていった。ライブドアーも株主ばかりでなく、ユーザーも大事にしてもらいものだ。ユーザーは良い製品によりその恩恵を十分受けているものだから。




2006年1月21日
<ニコン、コニカミノルタ ショック>
 昨日の新聞にコニカミノルタホールディングスの銀塩フィルムカメラからの撤退が載っていた。ニコンも同様に事実上撤退だそうだ。コニカと言えばサクラフィルム、ミノルタといえばα7000という業界初のAF(オートフォーカス)付き一眼レフカメラ、ニコンと言えば頑丈でプロに好まれたカメラとそれぞれ一世を風靡したカメラメーカーである。これらが銀塩フィルムカメラから撤退するとは、私には感慨深いものがある。
 今から20年以上も前、私はデジタルスチルカメラの開発に取り組んでいた。当然世の中にそんな物が無い時代だ。CDはすでにデジタル化されていたが、映像(TV)はまだデジタル化されておらず、将来のトレンドを見ての開発だった。ところがデジタルカメラを開発するにもデバイス(部品)が無い。TV信号のレートで動作するADコンバーターは外国製で、高速動作させるものだから大きくて熱くなる。半導体メモリーも大容量の物がなくて、当時最大の容量だった1MbのSRAMを使用してICカードも作らなければならなかった。撮像素子はCCDで小さくて手に入るものはビデオカメラに使用されていた数10万画素であった。開発段階で100万画素のCCDがやっと出来る程度で、またこれも馬鹿でかい代物だった。またIT環境も貧しかった。コンピューターの処理能力は低いし、家庭で写真プリントが出来るまでには至っていなかった。そんな中でも何とかデジタルスチルカメラとアルバムを試作した。アナログの電子写真はすでに存在していたが、それは新聞の写真に少しだけ使われていた。電子化による転送のし易さの為である。しかし画質は今一つの感があった。
 デジタルスチルカメラはコンピューターとの親和性が高く、その将来性は感じられたが、当時の技術では銀塩フィルムの質までは到底かなわない物であった。私の当時の正直の感想は、画質においてデジタルカメラは銀塩フィルムカメラに永遠にかなわないというものだった。ところが今はどうだろう。カメラは小さくて、何百万画素のCCDで、容量の大きいフラッシュメモリーがあり、家庭にはインターネットが使える高速のコンピューターがあり、高精細度のプリンターもある。今我々は簡単な操作で35mmフィルムに負けない画質を楽しめるようになってしまった。20年前には想像できなかったことである。そして、昨日のコニカミノルタの記事である。
 今回考えさせられた事が二つある。一つは人間の知恵というのは無限であること。世代に渡って技術が引き継がれていくと、相乗的に進歩し、それは私の想像を超える速さで進むことを経験したこと。もう一つは産業の盛衰の厳しさ。かつてもビデオカメラが発達し、8mmカメラが影響を受け、CDが出来るとアナログディスク産業が衰退した。しかしこのCDも今ipodに代表される音楽配信によって売り上げが落ちている。SACDなど高音質か何かを訴えないと今のままでは減っていくだろう。今朝の新聞にはウオークマンの責任者の交代の記事が出ていた。これもipodの影響だ。ブラン管TVもしかりだ。いつの時代でも経営者というのは大変だ。ちょっと先を見誤ると取り返しのつかない状況になる。これは数値で表される経営でなく、勘と意志が必要なものだ。
 この先銀塩フィルムカメラはどうなっていくのだろうか。35mmカメラは縮小され、産業としての規模は縮小されるだろう。しかし無くなることはないだろう。たとえ規模が小さくなろうとも、誰かがその技術を産業としてよりもむしろ文化として受け継いでくれると思う。それは真空管アンプを見ても、アナログカートリッジをみても明白なことである。




2006年1月11日
<人間のチョウ能力>
 小林秀雄の本を読んでいる。内容が難しいところがあり良くは理解出来ていない。就寝前に読むにはちょうど良い本かもしれない。そんな中面白いことが書いてありちょっと引っかかった。「近代絵画」の<モネ>について書かれた評論の部分である。おおよそ次のようなことが書いてある。<光も波だし音も波である限り、波の性質には、共通なものがあるが、これを感受する眼と耳との性質が全く異なるというところに、非常な難点があったからだ。・・・・耳が一定の範囲の音波を聞く場合、耳は一つ一つの異なった波長の波に対して正確に応ずる。・・・耳は、合成音が異なる振動数を持つ音から成り立っている事を聞き分ける。音楽を聞く楽しみとは、聞き分ける楽しみである。・・・耳は多かれ少なかれ分析的に感じ得るからである。耳は協和音と不協和音とを鋭く分離して快不快を感ずる。ところが、眼が光の波を感受する場合には、まるで違った事が起るので、眼には混合した色の波を、分離して感ずる能力がない。混合した色は融合色として感じられる。光波を受ける眼の受信機は、耳の様に整備されていない。>
 これを読んだ時私はちょっと衝撃を受けた。これまで事象は分かっていたが、眼と耳を比較しての機能の差がなるほどこんなに違うものかと。我々は絵を見る時、すでに混ざった絵の具を分析しては見えない。テレビなどはR(赤)、G(緑)、B(青)しか発光していないにもかかわらず、眼は勝手に混合してしまい、何万色のカラー画像になる。一方音を聴く時、音の波は一本にもかかわらず耳は会話を分離して理解するし、オーケストラの楽器を聞き分け、和音を楽しむことができる。この耳の分析能力はどうして得られたものだろうか。この人間に備わった聴(チョウ)能力には驚かざるを得ない。この能力がコミュニケーションを発達させ、文化を生んだのだろうか。動物も鳴き声で会話しているので、分析的に聞き分けているかもしれない。しかし人間のように音楽を楽しめるまでには至っていない。この聴能力をコンピューターで再現するのは出来るのだろうか。
オシロスコープで音楽信号を見ると唯の一本線だ。ところがスピーカーから音を出すと楽器の音を分離し、メロディーを理解し、和音を楽しむことが出来る。信じられないほどの聴能力だ。もしこの聴能力がなかったならば、250年前にはモーツアルトは存在しなかっただろうし、オーケストラもビートルズもいない。音楽家、評論家、私のようなアンプ職人も必要ないだろう。私は小林秀雄によって聴能力を再認識させられた。これは人間が持つ特殊な能力だ。皆さんの中には仕事が忙しくて音楽を聴く時間がないと言われる方がいるだろうが、これは自らその特殊能力を放棄していることにはなりませんか。ipodでも車の中でもカラオケでも出来たらMYプロダクツのアンプで音楽を楽しみませんか。人生の中でそのチョウ能力を使わないと勿体ないですぞ。




2006年1月3日
<新年明けましておめでとうございます>
 明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
昨年は時間が過ぎるのが速く感じられた。事業立ち上げ、手造りアンプの設計・製作、このホームページ立ち上げ、新製品開発など新しい事を始めることが多かったため時間が掛かり、時間の進み具合が速く感じられた。今年はどのようなことになるだろうか。
 さて今年は何をしようか考えている。個性のあるアンプを造りたいと常に考えているが、その中でなるべくお客様に喜んでいただく物を造りたい。アンプと言ってもパワーアンプ、ラインアンプ、イコライザー(EQ)アンプなどある。最近パワーアンプでバランス入力対応のアンプの回路を書き上げた。バランス回路にすればグランドの影響が少なくなり、きっとより繊細な音になるのかと期待しているが、どのような音に仕上がるかが楽しみだ。特に真空管アンプではバランス入力対応のアンプが少ないので、新しい技術への挑戦も楽しみの一つでもある。パワーアンプをバランス対応にするとプリアンプもバランス入力、出力対応にしなければならない。回路アイデアは出来ているが、どのような性能になるのだろうか。Adagio対応のアンバランス入力プリ回路も考えていて、どちらを先に実験しようか迷う。ボリュームの影響を少なくして、かつもっと低出力インピーダンスにしたい。こちらも興味があり実験してみたい。またEQを作ってみてほしいという意見もありこちらも興味あるところだ。こちらもMMカートリッジの出力インピーダンスの変動の影響を少なくし、また低ノイズアンプも作ってみたい。実際真空管でどの程度までノイズがさがるのかも興味あるところだ。たかが真空管アンプであるが、技術的にはまだやられていないことが多いのでエンジニアとしては面白いテーマがいくつもある。新しい回路の実験も大切だが、昨年発売したAdagioのセールス活動も重要だ。このアンプはご家庭で比較的小音量で使用するには十分な音質、特性を持っている。このアンプの良さも分かってもらうように営業しなければならない。これまで造って差し上げたお客様には喜んでいただいており、感謝している。これからもONLY ONEの製品を目指して真空管アンプの提案をしていきたいと考えている。
 さて今年は何を提案していこうか。これまでの真空管アンプとは一味違うものを提案したいと考えている。
今年も宜しくお願いいたします。





元のページに戻る